実母は昭和16年生まれで現在81歳である。
数年前に「アルツハイマー型認知症」と診断され、内服薬を毎日飲んでいる。
そんな母と暮らして思うアレコレ・・
アルツハイマー型認知症
認知症は、脳の病気や障害など様々な原因により、認知機能が低下し、日常生活全般に支障が出てくる状態をいいます。
アルツハイマー型認知症は、認知症の中で最も多く、脳神経が変性して脳の一部が萎縮していく過程でおきる認知症です。
厚生労働省 みんなのメンタルヘルスより https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_recog.html
症状は悪くはなっていると思うけれど、まだまだ軽度な方だと思う。
発言はトンチンカンだし、動作もロボットみたいになってきた。
とはいえオムツをしてる訳でもなく、介護が必要な状態ではないのはありがたいことである。
欠けてきたピースは、そんなに多くはないはずだけど、それでも気が滅入るものだ。
母という存在、実母ならではの厄介なこと
私が小6の時に父が亡くなって、母の実家で祖母と伯父との生活が始まった。
それ以来、母は外で働く人であったから、ゆっくりテレビを観れなかったという。
その反動で今では
テレビを観ていたい
という気持ちが強くあるようで、ほっといたら岩のように座り始終テレビを観ている。
介護の仕事をしていた母は、頑なに「デイケア」等は行きたくないと言う。
母曰く、どういうことをするか分かっているから・・らしい。
意地とプライドは健在だ。
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祖母と伯父が亡くなり、ひとりになった母親と、ひとりっ子である私と再び生活するようになったのは2014年の頃だ。
(同居を了承してくれた夫に、とても感謝している)
当初は認知症の症状など出ていなかったが、やはりその時が来たか・・という感じで老いがやってきた。
働いていた頃のチャキチャキしてた母の面影は、もうない。
この人は、母にどことなく似た老人なのだ。
見た目も思考も行動も、以前の母とは違う。
老化って残酷なまでに人を変えるんだな。
実親と実子だからか、嫌悪感は遠慮なく湧き上がってくる。
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以前、明石家さんまさんが老人の「ボケ」は死ぬことに対して怖くないよう、ボケるという話をなにかで見聞きした覚えがある。
すごく納得した。
ボケて色んなことに鈍感になっていったら、死ぬ恐怖も薄れそうな気がする。
なぜ老いるとボケるのか?考察する
私も、なぜ老いるとボケるのかを考えてみた。
別れが悲しくないよう、思い出を過去形にするため
それは、『大好きな人との別れが悲しくないように』なのじゃないかと・・
思い出を過去形にするためにあるのかなと・・
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以前の母が若くして亡くなったら、私は母が大好きだったので本当に悲しかっただろうと想像できる。
しかしボケた末に亡くなったら、そこまで悲しみに暮れないと思う。
母に似た老人が人生を終えたという事実が、悲観よりも大きく占めそうだ。
認知症の行き着く先は、ひとつしかない。
そこまでの我慢比べで、ただ疲れていくだけ。
介護疲れで家族内の事件が多発しているが、けっして人ごとではない。
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大好きだった母の姿に、ボケた母を重ねることができない。
むしろ大好きだった母は、もう既にこの世から去ってしまっているのかもしれないと思う。
強制的に心の距離をとるため
大切な人が亡くなるのは、考えるよりきっとずっと辛い。
大好きな人を残して去るのも辛い。
もしかしたら母から見た私は、「娘っぽい中年の人」なだけかもしれない。
お互いの未練のような気持ちが薄まるよう、心の距離を強制的にとるために「ボケる」のか?
長生きリスク、寝たきりリスクが懸念される日本人の老後だからこその課題だ。
その課題の領域に、夫と私も入っている。
ならば自分は、惜しまれながらそのときを迎えたい
シミュレーションしてみる。
今の私が死んだら、息子も娘も「大好きな(と思ってくれてるはず)ママが死んじゃった」と悲しむだろう。
思い出してくれるのは、いい思い出ばかりな気がする。
くだらないことで笑いあったこと、一緒に行った旅行のことを思い浮かべるだろう。
私が好きなお菓子を見つけたら、「ママがよく食べてたね」って買うかもしれない。
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「大好きなママ」と、「大好きだったママ」・・この違いは大きい。
「やっと死んだ」って周囲に思われることなく、「やっと死ねる」って自覚できるうちに、惜しまれながらその時を迎えるほうが互いにとって良いのだろう。
きっとそうだと思う。
別れの悲しさが軽減されるとしても、ボケたくはない。
やはりピンピンコロリが、最適解だと思う。
認知症予防にブログを書く
なぜボケるのか理由を自分なりに見つけたとしても、現実は変わらない。
母の認知症介護に終わりを告げたころには、夫が・・って可能性は十分あるわけだから。
どうしたら防げるのか、母を反面教師にして考えてみた。
つまりは母の足りてないこと・・それは
好奇心
興味を持ってチャレンジすること
つまりはこうしてブログを書き続けることが、最短で最強なのではないか?
だから私は書き続けていく。
自分のため、家族のために・・